15.和製ジャズ温故知新2019/日本初のダンスバンド・波多野バンドとオーケストラ
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- 2019/03/30(Sat) -
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戦後15年で和製ジャズの兆しが見える。
ここで、もう一度ジャズをそもそも日本に広めていった人間波多野福太郎 のことを考えてみたい。 文献には 日本におけるジャズの先駆は、明治四十五年1912年(出港してから、数日後には、 七月三十日、明治天皇が崩御することになり、大正に改元)アメリカ行きの東洋汽船 の地洋丸(グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまる。波多野福太郎、 奥山貞吉、田中平三郎、斉藤左和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学) の卒業生だった。 1912年このアメリカ行き(横浜~サンフランシスコ間)の客船(地洋丸)の専属バンド として波多野福太郎(バイオリン)、奥山貞吉(ビオラ)、田中平三郎(バイオリン)、 斉藤佐和(ピアノ)、高桑慶照(チェロ)の5名が乗船するところから始まる。 リーダーは波多野福太郎である。 ![]() この波多野福太郎を中心とした波多野バンドは、1918年まで専属バンドとして 活動する。 編成は見てみるとピアノ+弦楽四重奏(彼らは持ち替えで管楽器も器用に演奏)。 当時演奏されていた曲は、船上で演奏する為「オリエンタル・ダンス」「キスメット」 「金婚式」などの小品クラシックがほとんどで、ジャズは演奏されていない。 しかし、初めてサンフランシスコに上陸し、演奏した時は、器用に舶来の楽器を 操る日本人に対して拍手喝采をあびる。 波多野福太郎は18年以後船をおり、弟波多野鑅次郎(はたのえいじろう)とともに ハタノオーケストラを結成し、帝国ホテルなどで演奏する。 これが日本で初めてのダンスバンドである。 ![]() このダンスバンドでは、アメリカ往復期間に持ち帰ったジャズのスコアー、パート譜 でフォックス・トロットやワン・ステップ、ラグタイムが演奏される。 この波多野福太郎を中心とした無声映画への参加、ダンスホールでの演奏が、 日本のジャズの幕を開けることとなる。 この動きの拠点は横浜を中心とした東京であるが、関東大震災(1923年)を境に拠点は 大阪に移る。 海の向こうアメリカでは、1900年コルネット奏者のバディ・ボールデンが ニューオーリンズで人気を博し 1917年ニューオーリンズ出身の白人バンドである オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用 レコードを発表する。 ![]() バディ・ボールデンバンド 1905年頃 このように、アメリカと日本はラグタイムピアノのように、わずかな時間差で ジャズが発展していく。 |
14.和製ジャズ温故知新2019/和製ジャズ誕生
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- 2019/03/27(Wed) -
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1961年「祭りの幻想」というレコードが発売されている。
演奏は時代の寵児と言われていた白木秀雄クインテットである。 ![]() メンバー:小俣尚也(tp)、 松本英彦(ts,fl),、世良譲(p)、 栗田八郎(b)、 白木秀雄(ds) 白根きぬ子(琴)※「祭りの幻想」のみ参加 1961年録音 このレコード、一口で言うと和洋折衷のジャズ。 しかし、戦後から続くジャズブームの熱い息吹がある。 この曲「祭りの幻想」を書いたのがピアニスト八城一夫である。 書いたのは58年位らしいが、58年というとマイルスが モードジャズ「マイルストーン」を発表した年である。 ![]() 日本でもモードによるアプローチが始まっていたのである。 しかし、アプローチと言っても本格的なものではなく、 琴をジャズに組み込むなど安易な手法とも言えなくもない。 戦後のこの時代、ほとんどのミュージシャンがアメリカに追いつく ことを第一に考えていた時代に、日本人のジャズを作り出そうと していた空気は非常に読み取れる。 このアプローチは60年代後半から70年代初頭の、渡辺貞夫、菊池雅章、 日野皓正らを中心とした第2次ジャズブームに繋がって行く。 しかし、このジャケットすこし安易すぎる。 クラシックの分野で、日本人では武満徹がジャズの手法を取り入れ 盛んに映画音楽を作曲している。 その中には「他人の顔」「ホゼトーレス」等デュークエリントンの ハーモニー手法を取り入れ、メロディーを日本情緒豊かに作られた曲が 多く見られる。 ![]() 日本人にとってもまだまだ夢のある良い時代だったのである。 |
13.和製ジャズ温故知新2019/時代の寵児.白木秀雄
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- 2019/03/24(Sun) -
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50年代の日本のジャズを語る上で、必ず出てくる人物に「白木秀雄」がいる。
![]() 1933年生まれ。本名「柏倉秀康」。高校でハーモニカバンドに在籍する白木は 後に東京芸大打楽器科に入学する。この年の打楽器科入学は2名。 同期に指揮者の岩城宏之がいる。 芸大在学中からブルーコーツなどの人気ビックバンドの他「レイモンド・コンデ& ゲイ・セプテット」、「河辺公一とゴールデン・チャリオティアーズ」 「小野満とフォアブラザーズ」、「与田輝雄とシックス・レモンズ」等の人気バンドを渡り歩き 1957年「白木秀雄クインテット」を結成する。 メンバーは、松本英彦、福原彰、世良譲、栗田八郎とこれまた当時の モダンジャズの寵児ばかりを集めたバンドだった。 ![]() (写真は日野皓正が加入した1965年当時のもの) 時代はビバップからハードバップに移行する時期である。 この時期海の向こうではファンキージャズと称する、 「アートブレーキー&ジャズメッセンジャーズ」が流行する時期である。 いち早くその流れを汲んだ白木秀雄は時代を代表するドラマーとなっていく。 そのような時代の寵児を集めたバンドは言うまでもなく次世代のミュージシャンを 多く育てる。 トランペット/福原彰、小俣尚也、仲野彰、日野皓正 テナーサックス/宮沢昭、松本英彦、村岡建、稲垣次郎 ピアノ/八城一夫、世良譲、大野雄二 ベース/栗田八郎、稲葉国光などが在籍した。 彼らは後の日本のジャズシーンを作っていく中心となるメンバーばかりである。 そんな時代の寵児も1972年39歳で人生の幕を閉じる。 |
12.和製ジャズ温故知新2019/ジャズブームの終焉と江利チエミ
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- 2019/03/22(Fri) -
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モカンボセッションで日本のモダンジャズ幕開けとなったが、モダンジャズが
大衆の音楽とはならない。 大衆の欲していたものは、軽音楽という日本語の歌入りのジャズ、歌謡曲 を欲していたのである。 ジャズブームの最中の1952年、日本にとって最も重要な「日米安全保障条約」 が発効される。 この発効により、占領軍は駐留軍となり規模を縮小して 日本に残ることとなる。 基地周りをしていた日本人ジャズマンは、基地以外でも演奏するようになり ジャズブームに貢献するのである。 そのような中、キャンプ周りで鍛えた歌唱力とジャズフィーリングを日本人の もともと持っていた「コブシ(節)」を取り入れ登場した歌手が「江利チエミ」 である。 ![]() 彼女は幼い時からキャンプ周りで身に付けた、黒人のジャズフィーリングと 日本人の心の底流に流れる浪花節の要素をあわせ、「テネシーワルツ」を歌う。 この歌は瞬く間に日本人の心をつかみ、一躍アイドルのような存在となる。 1953年のこの時期同じように、「想い出のワルツ」で雪村いずみがデビューする。 ![]() ジャズと邦楽フィーリングをあわせた江利チエミ、ミュージカルの歌い方をベースにした 雪村いずみ、演歌の美空ひばりをあわせて元祖!「三人娘」として時代をつくる。 ![]() 敗戦によって傷ついた大衆の心には、舶来音楽のジャズよりも歌謡曲を ベースにした、歌謡ポップスの方にブームは移り、ジャズブームは終焉する。 |
11.和製ジャズ温故知新2019/幻のモカンボセッション
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- 2019/03/20(Wed) -
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戦後のジャズシーンを語る上で欠かせない人物がいる。
天才ピアニスト守安祥太郎である。 ![]() バップピアニストのバド・パウェルを徹底的に研究した彼は、 この時代スイングスタイルのピアノ奏法が多い中、いち早く ビバップのスタイルを身につけた存在で知られる。 彼は、奇癖を持っていたらしく、いわゆる曲弾きと呼ばれる曲芸のように、 ピアノの下から手だけ出して弾いたり、椅子に後ろ向きに座り右、左反対に 弾いたり、さらにステージで踊りだすという変わった人間だった。 今ならさしずめキースジャレットか? そのような才能に恵まれた守安も躁鬱病で1955年32歳で自害してしまう。 その守安が歴史に名を残すのは、日本で初めてのジャムセッション1954年 ナイトクラブ「モカンボ」のセッションがあったからである。セッションは3日間。 現在残るものは3日目のセッションのもので、手製の重量級テープ・レコーダーに、 強く引けば切れる紙テープという、今では考えられないような代物を駆使して 録音が行われた。 ![]() メンバーは守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホース、石橋エータローのピアニスト、 サックスは宮沢昭、渡辺明、五十嵐明要、渡辺貞夫、与田輝雄、海老原啓一郎 ベースでは金井英人、滝本達郎、ドラムでハナ肇、清水閏、五十嵐武要、原田寛治、 そして杉浦良三(vib)や高柳昌行(g)等だ。沢田駿吾と植木等もいる。 面々を見ると日本でいち早くモダンジャズを身につけたメンバーばかりで 後に日本のジャズシーンを牽引していく、渡辺貞夫が入っているのが興味深い。 ![]() 演奏は守安と宮沢が清水潤のドラムに鼓舞されて入魂の演奏を繰り広げる。 特に守安がビ・バップを自分の音楽としているのに驚く。 ここに集まった演奏家たちはその後それぞれの道を歩むことになるが、 日本のモダンジャズのスタートはこの夜にあったといっても過言ではない。 I WANT TO BE HAPPY (MOCAMBO SESSION ’54) 演奏:宮沢昭(ts) 守安祥太郎(p) 鈴木寿夫(b) 清水潤(ds) |