20.和製ジャズ温故知新2019/最終回ジャズからフージュンへ
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- 2019/04/06(Sat) -
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和製ジャズ温故知新2019の最終回である。
1960年から日本のジャズを積極的に創ろうという動きは、 新世紀音楽研究所(高柳、金井、富樫、菊池ら)の動きと 相まり、フリージャズの手法にむかう。 これは、ジャズだけではなく現代音楽の場面でも、十二音技法 トータルセリー、シンセサイザーの導入、偶然性の音楽 (チャンスオペレーション)を使った前衛的な手法を模索する。 当然であるが、フリージャズも十二音技法も一般人には 受け入れられることはない。 ジャズはフリージャズに向かう事でより一層混沌として崩壊する。 また、現代音楽も進んだ理論に押しつぶされるように、ジャズと同じ道を たどる。70年代に入り、ジャズは電子音楽、ロック、アフリカンミュージック とつながり「フュージュン」として活路を見出す。 この時期日本でもフリージャズを経験し、さらに新しいジャズをつくる 為、菊池雅章、日野皓正、渡辺貞夫らを中心に日本のジャズが動いてゆく。 ここまで来てはっきりするのは、フュージュンの流れにうまく乗る者、 時流に乗り切れず50年代のジャズに戻る者と、はっきり分かれてゆくのである。 20回にわたり、1920年代からから1970年まで日本のジャズを見てきた。 そこから見えるものは、日本人の特質とも言える「新しいものを取り込んで 変化させる技術」、それとジャズそのものが持っている、「どんどん変質し 生まれ変わろうとする本質」である。 その先にジャズがどうなっていくかは、今も現在進行形のままである。 ![]() |
19.和製ジャズ温故知新2019/希代の天才ドラマー富樫雅彦
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- 2019/04/05(Fri) -
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ジャズ界の中で○○の天才という言葉をよく使うが、富樫雅彦はまさしく、
その言葉が当てはまるだろう。 1940年生まれ。 幼少からヴァイオリンをはじめ、13歳でドラマーを目指す。 14歳(中学2年)にはチャーリー石黒率いる東京パンチョスでプロ活動していた というから大変な早熟である。 又、10代から八木正生トリオ、秋吉敏子コージー・カルテットなど複数のグループ でドラマーとして活躍、天才ぶりを発揮する。 ![]() その後、高柳昌行、金井英人らの作る「新世紀音楽研究所」に参加、 1963年「銀巴里セッション」に23歳で出演。 以前にも書いた「新世紀音楽研究所」はメンバーそれぞれがフリージャズの 要素の強いメンバーが多く、富樫もまた当然のようにフリージャズに傾倒していく。 欧米のジャズはオーネット・コールマンの出現により、フリージャズが盛んになる。 1960年後半の欧米はベトナム戦争反対の世論真っ盛りの時期で、音楽だけではなく あらゆる芸術活動が混沌として、活況をていしていた時代である。 日本もまた、60年代後半は60年70年二つの安保条約による影響で、社会状況は 混沌として音楽、芸術活動は活況を呈していた時代である。 ![]() しかし、そのような時代でもフリージャズ、現代音楽は時代の主流に なる事もなく、また民間に注目を集める存在にはならない。 しかし、人間の欲望、混沌を表す一つのツール(ジャンル)として、 フリージャズは一部の市民のから支持されるものになっていく。 1970年富樫は不慮の事故により、ドラマーの生命線と言われる、両足を失う。 普通はそこでドラム生命が断たれるものであるが、天才富樫は両手のみを使い、 常人と同じように繊細なスイングから豪快なパーカッションまでを叩き分けた。 その後、ドン・チェリー、スティーブ・レイシー、チャーリー・ヘイデン、 セシル・テイラー、マル・ウォルドロン、ゲイリー・ピーコック、 リッチー・バイラーク、ポール・ブレイ等の海外演奏から名指しで共演を求められる ほどの精神性の高いジャズ世界を作り上げる。 しかし、2002年に体調不良の為演奏を休止。作曲、絵画製作に専念。 そのような彼も2007年67歳で生涯を閉じる。 今でもジャズ演奏家の語り草となるのは、「両足のあった富樫は本当にすごかった」という。 その演奏を本当に聞いてみたかった。 ![]() |
18.和製ジャズ温故知新2019/Break time.ベースの鬼才金井英人
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- 2019/04/04(Thu) -
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ここで少し歴史をBreak timeとして、個人に光を当てたい。
70年代を牽引したジャズメンに渡辺貞夫、日野 皓正、菊池雅章の3人というのは、 異論のない所であるが今回は、ベースの鬼才「金井英人」を取り上げたい。 ![]() 生まれは1931年(昭和6年)東京生まれである。 高校卒業後、南里文雄とホット・ペッパーズ、 西条孝之助とウェスト・ライナーズ、ジャズ・アカデミー・カルテット (高柳昌行、富樫雅彦、菊池雅章、金井英人)を経て 1962年 高柳昌行と『新世紀音楽研究所』を設立する。 「新世紀音楽研究所」というのが70年代につながる、重要な役割を果たした 研究会である。1963年の幻の「銀巴里セッション」も金井英人なしには 開催されなかったという。 60年代から日本のジャズシーンを底辺から支える役割をして、ベース という楽器の特徴を最大限に生かし、オーソドックスジャズから フリージャズまで幅広い活動を行った。 ![]() 特に旧ソ連、アメリカ(ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ)、香港、上海、 ネパール、ペルー、ポーランド等、海外を股にかけた、絵画、詩とのコラボレーション を始め、舞踏家大野一雄とのコラボレーションを行うなど、日本のコンテンポラリー ジャズのアプローチの第一人者と言える。 彼のスタイルは、チャーリー・ミンガス、デューク・エリントンから大きな影響を受けながらも ジャズと現代音楽の狭間で演奏し続けた、希有な演奏家である。 日本独特の間を取り入れた奏法、どんなジャンルとコラボーレーションをしても 日本人のルーツを感じさせる重厚なベース。 ![]() そのような希有な存在も2011年81歳で亡くなる。 亡くなる直前まで、ベースをかき鳴らしていたという、根っからのジャズマンである。 いま、日本にはこのようなベーシスト(ジャズマン)は本当にいなくなってしまった。 本当に残念である。 |
17.和製ジャズ温故知新2019/武満徹とジャズ
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- 2019/04/03(Wed) -
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和製ジャズを見つめる温故知新、現代音楽作曲家武満徹
とジャズのつながりを考えたい。 戦後のジャズブームを終えて、1960年中頃から一段と フリージャズの影響が出てくる。 前回のコラム「銀巴里セッション」もその一つの流れと考えられる のかも知れない。 海の向こうではオーネットコールマンが現れ、一段とジャズが混迷を 深めていく。 ![]() そのような中に同調するように出てきたのが、武満徹である。 一般人にはほとんどなじみのない現代音楽作曲家という肩書き を持っているが、映画音楽での彼の作品も大変素晴らしいものだ。 音楽作品を知らなくとも、黒沢明の「乱」、「どですかでん」、篠田正浩 の「はなれ瞽女おりん」勅使河原宏「他人の顔」をはじめとして、60年代 から70年にかけて膨大な映像音楽を作曲している。 その重要な要素に彼は、ジャズ手法を多数用いている。 スイングジャズの伝統的手法、デューク・エリントンのビックバンド手法 そしてフリージャズの手法まで用い、当時現れたジョン・ケージを始めとする 録音技術を用いたミュージックコンクレートまでも用いている。 ![]() 1960年代後半は戦後の混乱とは違う、高度経済成長の最ただ中である。 戦前の日本人の価値観が崩壊し、戦後新しく価値観を生み出そうとしている 混迷の時期とも言える。 そのような時期に現代音楽、ジャズ、美術、評論、映像に精通している 稀な作曲家武満徹が活躍する。 その後、彼は日本人独自の世界を彷彿させる「武満トーン」を作り上げ 世界のタケミツとなって行く。 勅使河原宏監督「ホゼー・トレス」より 武満徹作曲「トレーニングと休息の音楽」 |
16.和製ジャズ温故知新2019/銀巴里セッション
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- 2019/03/31(Sun) -
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終戦の色が少しずつ薄くなる1963年、「銀巴里セッション」が開かれる。
主催は「新世紀音楽研究所」。 何とも固いすごい名前である。 日本のジャズのスタートをきったのが1954年「モカンボセッション」 とすれば、この1963年「銀巴里セッション」は日本のジャズそのもの を創作し始めた記念碑的セッションと言える。 ![]() ギタリスト高柳昌行、ベースの金井英人を中心に、日野皓正、菊池雅章 富樫雅彦、稲葉国光、山下洋輔、中牟礼貞則ら日本の将来をになう若手が 集結、セッションをする。 ![]() このセッションは「銀巴里セッション1963」として録音に残る。 それぞれのメンバーが個性を発揮し、自己のグループを 後年結成することになるが、この時最も存在を示したのが、高柳昌行 である。そんな彼も1991年58歳で病死する。 ![]() この時期、現代音楽の場も草月アートセンターを中心に武満徹、 八木正生、三保敬太郎、黛敏郎を中心にクラシックの新しい動きを 模索するためジャズとの接点を探るべく「草月ミュージックイン」 として活動をおこなう。 ![]() 特に作曲家として世界に名高い武満徹は、デュークエリントンの サウンドを研究し、後の自分のサウンド「タケミツトーン」を 作り上げる。 こうしてジャズ、現代音楽、美術、評論のジャンルを巻き込みながら 日本独自の音楽を作り上げようとする流れが生まれるのである。 |