4.和製ジャズ温故知新2019/日本初のジャズ教則本
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- 2019/02/26(Tue) -
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昭和初期のジャズの資料を調べていたらこの様な本に出会った。
出版社はARS(アルス)。この本は日本での初めてのポピュラー(ジャズ)教則本である。 ![]() 発行は昭和14年(1939年)太平洋戦争が開戦した年である。 この様な時代にこの様な本があるとは・・・。 著者は全員日本人。 当時の各分野の精鋭が揃った面々である。 ![]() ざっと見てみると、 ◼︎ジャズの歴史/服部龍太郎:作詞家、服部良一との共作も多い。 ◼︎ジャズサックス奏法/服部良一:日本を代表する作曲家 ◼︎ジャズピアノ奏法/菊池滋嗣:日本人初のジャズピアニスト ◼︎ギター奏法/古賀政男:影を慕いて、丘を越えて知られる作曲家。 ◼︎ハワイアンギター奏法/灰田晴彦:ハワイアンの第一人者。 弟勝彦は「東京の屋根の下」で知られる歌手。 ◼︎流行歌唱法/徳山タマキ:バリトン声楽家。 ◼︎ジャズ編曲/紙 恭輔:指揮者、ジャズ、映画音楽の草分け存在。 ◼︎トーキーとレビュー概論/堀内敬三:音楽詳論の草分け的存在。 何とも日本中から分野を超えて、ポピュラーとジャズ音楽のために 結集して共同執筆した本である。 こんな本が戦前からあったとは嬉しくなる。 時代は戦争に向かい益々混沌とする時期、自分たちの知識と 経験を残そうとした先人の気概が見て取れる。 その中でも、声楽家徳山タマキの「流行歌の歌い方」の部分は 現代も通用する痛烈なものである。以下に。 「流行歌という名称はレコード会社が勝手につけたものであって、流行しようとしまいと それには関係のないものである。したがって、これという唄い方もない。 流行歌は大衆のものだ。だから大衆が先生であるし、また大衆に適合した唄い方をするのが一番賢い。 しかし、その漠然とした中にも経験によって唄い方の法則のようなものが、僕たちの仲間にある。 1.歌の歌詞をはっきりすること。 2.誰にでもわかるように唄うこと。 3.メロディーのクライマックスを印象的に歌うこと。 4.芸術を第2において、その曲の気分を最大限に出すこと。 以上なような条件で唄えばよいのであるが、これが中々難しい。 第一の歌詞をはっきりさせて唄うことは簡単なようであるが、すぐにはできない。 といってあまりはっきりしすぎると、品のない、きざっぽいものになる。 流行歌には品などはいらないと思ってはいけない。 現在の流行歌には艶麗(えんれい)極まりない美しい言葉が連ねたれている。 このすばらしい詩をメロディーと共に歌うのが歌手の使命だ。詩人の気持ちを生かし、 作曲を生かしてこそ初めて、完全な流行歌といえる。」 何ともすごい言葉である。 ここまで言い切れるのは並みの知見ではない。 ※上記の画像資料は『上大岡的音楽生活』のブログ上から提供していただきました。 |
2.和製ジャズ温故知新2019/昭和歌謡の父.服部良一
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- 2019/02/24(Sun) -
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昭和初期の和製ポピュラー(ジャズ)を考えるとき、服部良一の名は避けて通れない。
彼の名前は、戦後「青い山脈」のヒットで全国的に知られたものとなるが、 昭和初期からすでに、ジャズのフィーリングを取り入れた曲を多く書いている。 「蘇州夜曲」「別れのブルース」等は昭和モダンと呼ばれ、多くの聴衆の支持を 得ている。 この時代は満州事変から太平洋戦争に向かう時代であり、時代背景は絶えず 不穏な空気が漂っている。 しかし、ダンスホールを中心としたジャズ演奏は始まっており、スイング演奏も 徐々に定着したものとなっていたが、和製ポピュラー、昭和歌謡といずれもが 渾然一体となり、時代を作っていた。いわゆるフュージュンである。 この場面でも時代を牽引していたのが服部良一である。 ![]() ジャズと歌謡曲の橋渡し役として彼の果たした役割は非常に大きい。 この後、日本は太平洋戦争に突入し、ジャズ音楽は敵勢音楽として しばらく、表舞台から消え軍事歌謡一色になる。 ジャズの不毛の時代である。 この時代この3人に光が当たる。 1910年 森山久(もりやまひさし サンフランシスコ生まれ) 1911年 ディーブ釜萢(かまやつただし/ロサンゼルス生まれ) 1916年 アイバ・戸栗(とぐりいくこ/ロサンゼルス生まれ) アイバ・戸栗(戸栗郁子)は戦中DJの奔りと言われる「東京ローズ」である。 彼女を使い日本政府はアメリカ向けにジャズ音楽を流していたのである。 これは連合国に対するプロパガンダ政策の一環である。そのような中、 戦中でも堂々とジャズを演奏している人もいたのである。 ディーブ釜萢(かまやつひろしの父)もその一人である。 |
1.和製ジャズ温故知新2019/二村定一。
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- 2019/02/23(Sat) -
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2012年、半年に渡り日本のジャズ起源を調べるために、『和製ジャズ温故知新』
を書いた。それから7年が過ぎ再び昭和の時代を考えている。 というのも、昭和から平成に変わり31年が過ぎ、2019年新しい年号になる。 益々昭和が遠くなる今、再び昭和のジャズを振り返るのも良い気がする。 そこから、日本におけるポピュラーとジャズの息吹が感じられたらと思う。 第1回は日本ポピュラー(ジャズ)の始まりからである。 *********************************** ![]() 日本のジャズ黎明期の前、先駆となった人のことを調べている。 調べてみると、1900年代からすでにジャズとは言えないまでも ポピュラーともジャズとも付かないクラシックの要素が入った ものがこの時代にある。 上記に出てくる二村定一とは ”My Blue Heven"(私の青い空)で一世を 風靡する人である。上記の明治45年(1912年)というと明治の終わり、 大正に入ろうかという頃である。 この時期から日本にはジャズの芽がある。 ![]() それから考えると約100年もの歴史があることになる。 アメリカのジャズが形作られたのが1890年後半なので ほぼ同時期にジャズの時代が作られていたことになる。 これは非常に重要なことで、輸入大国として名を馳せている 日本が、上記記述によると逆に向こうに押しかけたともとれる。 この時期を調べると、明治時代俗謡の名称で多くの曲が一般 大衆に聞かれている。日本最初の演歌を作る「ノンキ節」の 『添田唖蝉坊』はその代表と言える。 昭和に入ると昭和歌謡の父『服部良一』が活躍を始める。 1930年前後の話である。 アメリカではこの時期すでにスイングジャズが始まっている。 以下次回に。 |
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