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16.和製ジャズ温故知新2019/銀巴里セッション
- 2019/03/31(Sun) -
終戦の色が少しずつ薄くなる1963年、「銀巴里セッション」が開かれる。
主催は「新世紀音楽研究所」。
何とも固いすごい名前である。
 
日本のジャズのスタートをきったのが1954年「モカンボセッション」
とすれば、この1963年「銀巴里セッション」は日本のジャズそのもの
を創作し始めた記念碑的セッションと言える。
16の1
ギタリスト高柳昌行、ベースの金井英人を中心に、日野皓正、菊池雅章
富樫雅彦、稲葉国光、山下洋輔、中牟礼貞則ら日本の将来をになう若手が
集結、セッションをする。
16の2
このセッションは「銀巴里セッション1963」として録音に残る。 
それぞれのメンバーが個性を発揮し、自己のグループを
後年結成することになるが、この時最も存在を示したのが、高柳昌行
である。そんな彼も1991年58歳で病死する。
16の3
この時期、現代音楽の場も草月アートセンターを中心に武満徹、
八木正生、三保敬太郎、黛敏郎を中心にクラシックの新しい動きを
模索するためジャズとの接点を探るべく「草月ミュージックイン」
として活動をおこなう。
16の4 
特に作曲家として世界に名高い武満徹は、デュークエリントンの
サウンドを研究し、後の自分のサウンド「タケミツトーン」を
作り上げる。
こうしてジャズ、現代音楽、美術、評論のジャンルを巻き込みながら
日本独自の音楽を作り上げようとする流れが生まれるのである。


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15.和製ジャズ温故知新2019/日本初のダンスバンド・波多野バンドとオーケストラ
- 2019/03/30(Sat) -
戦後15年で和製ジャズの兆しが見える。
ここで、もう一度ジャズをそもそも日本に広めていった人間波多野福太郎
のことを考えてみたい。

文献には
日本におけるジャズの先駆は、明治四十五年1912年(出港してから、数日後には、
七月三十日、明治天皇が崩御することになり、大正に改元)アメリカ行きの東洋汽船
の地洋丸(グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまる。波多野福太郎、
奥山貞吉、田中平三郎、斉藤左和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)
の卒業生だった。


1912年このアメリカ行き(横浜~サンフランシスコ間)の客船(地洋丸)の専属バンド
として波多野福太郎(バイオリン)、奥山貞吉(ビオラ)、田中平三郎(バイオリン)、
斉藤佐和(ピアノ)、高桑慶照(チェロ)の5名が乗船するところから始まる。 
リーダーは波多野福太郎である。
15の3
この波多野福太郎を中心とした波多野バンドは、1918年まで専属バンドとして
活動する。 編成は見てみるとピアノ+弦楽四重奏(彼らは持ち替えで管楽器も器用に演奏)。

当時演奏されていた曲は、船上で演奏する為「オリエンタル・ダンス」「キスメット」
「金婚式」などの小品クラシックがほとんどで、ジャズは演奏されていない。
しかし、初めてサンフランシスコに上陸し、演奏した時は、器用に舶来の楽器を
操る日本人に対して拍手喝采をあびる。

波多野福太郎は18年以後船をおり、弟波多野鑅次郎(はたのえいじろう)とともに
ハタノオーケストラを結成し、帝国ホテルなどで演奏する。 
これが日本で初めてのダンスバンドである。
15の1 
このダンスバンドでは、アメリカ往復期間に持ち帰ったジャズのスコアー、パート譜
でフォックス・トロットやワン・ステップ、ラグタイムが演奏される。
この波多野福太郎を中心とした無声映画への参加、ダンスホールでの演奏が、
日本のジャズの幕を開けることとなる。
この動きの拠点は横浜を中心とした東京であるが、関東大震災(1923年)を境に拠点は
大阪に移る。

海の向こうアメリカでは、1900年コルネット奏者のバディ・ボールデン
ニューオーリンズで人気を博し 1917年ニューオーリンズ出身の白人バンドである
オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用
レコードを発表する。
15の2 
バディ・ボールデンバンド
1905年頃
このように、アメリカと日本はラグタイムピアノのように、わずかな時間差で
ジャズが発展していく。

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14.和製ジャズ温故知新2019/和製ジャズ誕生
- 2019/03/27(Wed) -
1961年「祭りの幻想」というレコードが発売されている。
演奏は時代の寵児と言われていた白木秀雄クインテットである。
14の1
メンバー:小俣尚也(tp)、 松本英彦(ts,fl),、世良譲(p)、
栗田八郎(b)、 白木秀雄(ds)
白根きぬ子(琴)※「祭りの幻想」のみ参加  1961年録音

このレコード、一口で言うと和洋折衷のジャズ。
しかし、戦後から続くジャズブームの熱い息吹がある。
この曲「祭りの幻想」を書いたのがピアニスト八城一夫である。
書いたのは58年位らしいが、58年というとマイルスが
モードジャズ「マイルストーン」を発表した年である。
14の3 
日本でもモードによるアプローチが始まっていたのである。
しかし、アプローチと言っても本格的なものではなく、
琴をジャズに組み込むなど安易な手法とも言えなくもない。

戦後のこの時代、ほとんどのミュージシャンがアメリカに追いつく
ことを第一に考えていた時代に、日本人のジャズを作り出そうと
していた空気は非常に読み取れる。
このアプローチは60年代後半から70年代初頭の、渡辺貞夫、菊池雅章、
日野皓正らを中心とした第2次ジャズブームに繋がって行く。
しかし、このジャケットすこし安易すぎる。

クラシックの分野で、日本人では武満徹がジャズの手法を取り入れ
盛んに映画音楽を作曲している。
その中には「他人の顔」「ホゼトーレス」等デュークエリントンの
ハーモニー手法を取り入れ、メロディーを日本情緒豊かに作られた曲が
多く見られる。
14の2 
日本人にとってもまだまだ夢のある良い時代だったのである。





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13.和製ジャズ温故知新2019/時代の寵児.白木秀雄
- 2019/03/24(Sun) -
50年代の日本のジャズを語る上で、必ず出てくる人物に「白木秀雄」がいる。
白木1
1933年生まれ。本名「柏倉秀康」。高校でハーモニカバンドに在籍する白木は
後に東京芸大打楽器科に入学する。この年の打楽器科入学は2名。
同期に指揮者の岩城宏之がいる。

芸大在学中からブルーコーツなどの人気ビックバンドの他「レイモンド・コンデ&
ゲイ・セプテット」、「河辺公一とゴールデン・チャリオティアーズ」
小野満とフォアブラザーズ」、「与田輝雄とシックス・レモンズ」等の人気バンドを渡り歩き
1957年「白木秀雄クインテット」を結成する。
メンバーは、松本英彦、福原彰、世良譲、栗田八郎とこれまた当時の
モダンジャズの寵児ばかりを集めたバンドだった。
白木2
(写真は日野皓正が加入した1965年当時のもの)

時代はビバップからハードバップに移行する時期である。
この時期海の向こうではファンキージャズと称する、
「アートブレーキー&ジャズメッセンジャーズ」が流行する時期である。 
いち早くその流れを汲んだ白木秀雄は時代を代表するドラマーとなっていく。

そのような時代の寵児を集めたバンドは言うまでもなく次世代のミュージシャンを
多く育てる。
トランペット/福原彰、小俣尚也、仲野彰、日野皓正
テナーサックス/宮沢昭、松本英彦、村岡建、稲垣次郎
ピアノ/八城一夫、世良譲、大野雄二
ベース/栗田八郎、稲葉国光などが在籍した。
彼らは後の日本のジャズシーンを作っていく中心となるメンバーばかりである。
そんな時代の寵児も1972年39歳で人生の幕を閉じる。




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12.和製ジャズ温故知新2019/ジャズブームの終焉と江利チエミ
- 2019/03/22(Fri) -
モカンボセッションで日本のモダンジャズ幕開けとなったが、モダンジャズが
大衆の音楽とはならない。
大衆の欲していたものは、軽音楽という日本語の歌入りのジャズ、歌謡曲
を欲していたのである。

ジャズブームの最中の1952年、日本にとって最も重要な「日米安全保障条約」
が発効される。 この発効により、占領軍は駐留軍となり規模を縮小して
日本に残ることとなる。

基地周りをしていた日本人ジャズマンは、基地以外でも演奏するようになり
ジャズブームに貢献するのである。

そのような中、キャンプ周りで鍛えた歌唱力とジャズフィーリングを日本人の
もともと持っていた「コブシ(節)」を取り入れ登場した歌手が「江利チエミ
である。
江利チエミ
彼女は幼い時からキャンプ周りで身に付けた、黒人のジャズフィーリングと
日本人の心の底流に流れる浪花節の要素をあわせ、「テネシーワルツ」を歌う。
この歌は瞬く間に日本人の心をつかみ、一躍アイドルのような存在となる。
1953年のこの時期同じように、「想い出のワルツ」で雪村いずみがデビューする。
 雪村いずみ 
ジャズと邦楽フィーリングをあわせた江利チエミ、ミュージカルの歌い方をベースにした
雪村いずみ、演歌の美空ひばりをあわせて元祖!「三人娘」として時代をつくる。
美空ひばり 
敗戦によって傷ついた大衆の心には、舶来音楽のジャズよりも歌謡曲を
ベースにした、歌謡ポップスの方にブームは移り、ジャズブームは終焉する。




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11.和製ジャズ温故知新2019/幻のモカンボセッション
- 2019/03/20(Wed) -
戦後のジャズシーンを語る上で欠かせない人物がいる。

天才ピアニスト守安祥太郎である。
モカンボ2 
バップピアニストのバド・パウェルを徹底的に研究した彼は、
この時代スイングスタイルのピアノ奏法が多い中、いち早く
ビバップのスタイルを身につけた存在で知られる。

彼は、奇癖を持っていたらしく、いわゆる曲弾きと呼ばれる曲芸のように、
ピアノの下から手だけ出して弾いたり、椅子に後ろ向きに座り右、左反対に
弾いたり、さらにステージで踊りだすという変わった人間だった。
今ならさしずめキースジャレットか?

そのような才能に恵まれた守安も躁鬱病で1955年32歳で自害してしまう。
その守安が歴史に名を残すのは、日本で初めてのジャムセッション1954年
ナイトクラブ「モカンボ」のセッションがあったからである。セッションは3日間。
現在残るものは3日目のセッションのもので、手製の重量級テープ・レコーダーに、
強く引けば切れる紙テープという、今では考えられないような代物を駆使して
録音が行われた。
 モカンボ1 
メンバーは守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホース、石橋エータローのピアニスト、
サックスは宮沢昭、渡辺明、五十嵐明要、渡辺貞夫、与田輝雄、海老原啓一郎
ベースでは金井英人、滝本達郎、ドラムでハナ肇、清水閏、五十嵐武要、原田寛治、
そして杉浦良三(vib)や高柳昌行(g)等だ。沢田駿吾と植木等もいる。

面々を見ると日本でいち早くモダンジャズを身につけたメンバーばかりで
後に日本のジャズシーンを牽引していく、渡辺貞夫が入っているのが興味深い。
モカンボ3
演奏は守安と宮沢が清水潤のドラムに鼓舞されて入魂の演奏を繰り広げる。
特に守安がビ・バップを自分の音楽としているのに驚く。

ここに集まった演奏家たちはその後それぞれの道を歩むことになるが、
日本のモダンジャズのスタートはこの夜にあったといっても過言ではない。

I WANT TO BE HAPPY (MOCAMBO SESSION ’54)
演奏:宮沢昭(ts) 守安祥太郎(p) 鈴木寿夫(b) 清水潤(ds)



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10.和製ジャズ温故知新2019/CBナインと舶来主義
- 2019/03/18(Mon) -
1952年から起こった戦後のジャズブームは55年には下火になる。

52年ジンクルーパトリオ、53年ルイ・アームストロング・オールスターズ、
JATPオールスターズと相次いで来日し、日本のジャズファンは本場の圧倒的な
演奏とスイング感に打ちのめされるのである。

そこで日本のジャズファンの中に起こったことは、ジャズはアメリカ!という舶来主義
と日本のジャズを大切に!しようと言う国内支持派に皮肉にも分かれてしまい、そのこと
が原因となりジャズブームは下火となっていく。
その欧米に偏った舶来主義は2019年の現在でも続いている。

そんなこととは関係なく、ジャズの追求に余念のないミュージシャンは
ジャズブームが来る前の1949年、本格的なビ・バップバンド『CBナイン
(クランベークナイン)』を結成する。

中心にはリーダーで編曲もやる馬渡誠一(as)、海老原啓一郎(as)、北里典彦(tp)、
清水閏(じゅん)(ds)。戦中は敵性音楽として禁止されていたJAZZが、戦後なだれの
ごとく入って来て、それを受止めるミュージシャンも大変だったに違いない。
そのJAZZの流れを的確に読み、いち早くバップ・イディオムを身につけた馬渡誠一
や海老原啓一郎は一歩先を行く存在だった。
さらにジーン・クルーパに酔っている時代にビ・バップのリズムをたたき出そうとした
清水閏の存在も大きい。

このグループには松本英彦(Ts)も在籍した。CBナインは大きな功績を残すも
2年間の活動で解散となり、ジョージ川口とビックフォー渡辺晋とシックス・ジョーズ
与田輝雄とシックスレモンズを頂点とするジャズブームにつながっていく。

映像はCBナインのメンバーを中心に編成された、『スイング・ジャーナル・オール・スターズ』

『スイング・ジャーナル・オール・スターズ』
北里典彦(tp)
林 一(tb)
海老原敬一郎(as)
厚母雄二郎(ts)
松本英彦(ts)
塩井芳幸(bs)
寺岡真三(p)
荒井襄(g)
小原重徳(b)
清水潤(ds)
安藤八郎(vib)


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9.和製ジャズ温故知新2019/戦後ジャズブーム到来
- 2019/03/16(Sat) -
戦後の日本に空前のジャズブームがやってくる。
1952年から55年の頃である。

1945年の終戦以来多くのジャズバンドが誕生した。
それを後押しするように、52年ドラムの名手ジン・クルーパトリオが来日する。
ジーンクルーパ 
ジン・クルーパといえばベニーグットマン。と、いえば、『シング・シング・シング』
と、いえば、ジン・クルーパというほどジャズファンのみならず一般にも知られた
存在である。 盛り上がらないはずはない。

もう一つ後押しをしたのが、53年にノーマン・グランツ率いる
J・A・T・P「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニー」が来日する。
この時は、オープンカーで銀座をパレードしたらしい。
来日メンバーは
◎ロイ・エルドリッジ(TP)
◎チャーリー・シェイヴァース(TP)
◎ビル・ハリス(TB)
◎ウィリー・スミス(AS)
◎ベニー・カーター(AS)
◎フリップ・フィリップス(TS)
◎ベン・ウェブスター(TS)
◎オスカー・ピーターソン(P)
◎ハーブ・エリス(G)
◎レイ・ブラウン(B)
◎J・C・ハード(DS)
◎レイモンド・チュニア(P)
◎ジーン・クルーパ(DS)
◎エラ・フィッツジェラルド(VO)
JATP.jpg 
この豪華メンバーを見たら銀座のパレードもうなずける。

そして、だめ押しに同年ルイ・アーム・ストロング・オールスターズが来日し
ミュージシャン、ジャズファンにジャズの本場の圧倒的なパワーを見せつけ
大きなインパクトを与えジャズ・ブームに拍車をかけた。
ルイ 
写真は日本最高の人気グループだった『ジョージ川口とビックフォー』。
びっく42
ジョージ川口(ドラム)中村八代(ピアノ)小野 満(ベース)松本英彦(サックス)








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8.和製ジャズ温故知新2019/ジャズとGHQ
- 2019/03/09(Sat) -
戦後から2年後の1947年、GHQ終戦連絡中央事務局の要請で
日本ミュージシャンズ・ユニオン』が結成される。
この年ジャズ雑誌『スイングジャーナル』が創刊される。(2010年廃刊) 
Swing20Journal20-20196204.jpg 
これは言ってみればバンドの格付け審査で、審査はGHQスペシャル・サービス
の立会いで、特別調達庁から委嘱された紙恭輔、渡辺弘、ディック・ミネ、南里文雄らが行なう。

現在の渡辺プロダクションを始めとする戦後の芸能プロダクションの専属タレントの報酬制度は
、この格付け審査を踏襲したものである。

また、この時期非公式に日米親善を目的として、多くのダンスパーティーが開かれる。
このパーティーには、アメリカ側から占領政策の中枢を占める高官が、日本側からは皇族、
政財界の実力者が顔を揃える。 この政策のメッセンジャーをつとめたのが『渡辺 弘と
スターダスターズ
』をはじめとするジャズメンたちである。

戦後占領軍の力で発展しようとしたジャズバンドは、その代償として占領政策の忠実な
メッセンジャーを務めることになるのである。
このことが、後にアメリカナイズの風潮として日本の上流階級を腐蝕し、庶民階級にも
外国崇拝舶来ブームの風潮を拡げていく。
その影響は日本社会に長く尾をひき、戦後の音楽芸能の世界にその後も深く広く根を張る
ことになる。

■STARDUSTERS - SWING FANTASY ■演奏:渡辺弘&スターダスターズ ■編曲:黛敏郎




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7.和製ジャズ温故知新2019/ナンシー梅木
- 2019/03/08(Fri) -
終戦後、怒濤のように米国から入ってくるジャズの動きにつれて
戦後初のモダンジャズコンボ「飯山茂雄&ゲイシックステット」が
結成される。終戦から翌年の1946年のことである。
飯山バンド
メンバーはフランシス・キーコ(Pf)、角田 孝(Gt)、レイモンド・コンテ(Cl)
飯山茂雄(Dr)。

フランシス・キーコ(Pf)、レイモンド・コンテ(Cl)はフィリピン出身のミュージシャンで
センスの良い演奏は日本のジャズ界に大きな影響を与えている。
角田 孝はいち早くモダンギターを身につけた名手、飯山茂雄はジーンクルーパ
スタイルからモダンドラムスタイルをいち早く叩いたドラマーである。

その他、最初のビ・パップ・バンドの一つと言われる「松本伸とイチバン・オクテット」
(後に秋吉敏子も参加)や「長尾正士のビーバップ・エース」が編成されたのも
昭和23年(1948年)のことである。

この時代星の数のように多くのグループとミュージシャン、歌手が登場するが、その中で
あまり聞かない名前にナンシー梅木(本名/梅木 美代志)がいる。
ナンシー 
ジャズヴォーカルで女優でもあった彼女は、40年代中から50年代日本と米国をまたにかけて
活躍する。アニタ・オデイ似の声で歌うハスキーボイスはなかなか秀逸である。

特に女優として日本人として初めて1957年ハリウッド映画「サヨナラ」で
アカデミー賞助演女優賞を受けている。 今で言う、国際派女優の走りである。
なお、この年の助演男優賞にはやはり日本人の早川雪洲(『戦場にかける橋』)がノミネート
されている。

そのように世界を股にかけて活躍をした彼女もまた、戦争の影響を大きく受けた一人で、
晩年はミズーリ州オーザックで静かに亡くなっている。




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6.和製ジャズ温故知新2019/進駐軍JAZZ
- 2019/03/07(Thu) -
1945年の終戦とともに、今まで敵性音楽として禁止されていたジャズ
が演奏されるようになる。

終戦とともにGHQ(連合国総司令部)の指導のもと、翌年から音楽放送も始まる。
ここが大事なところで、戦争に敗れた日本は米国の指導のもと、ジャズを始める
のである。

「ニュー・パシフィック・アワー」というタイトルで松本伸の率いる
「ニューパシフィック楽団」が登場する。この楽団には後に自分のバンドを
持って活躍した、渡辺 弘、菊池滋弥、谷口又士、飯山茂雄、ジミー原田、
森山久等そうそうたるプレイヤーで編成されていた。
61.jpg
このメンバーはいずれも戦前、戦中を通じスタープレイヤーとして名を馳せた
メンバーばかりである。
この当時の多くのメンバーは、軍楽隊出身でクラシックやマーチをたたき込まれた
腕をジャズに切り替えて演奏を始める。

軍楽隊出身には、シャープ・アンド・フラットの原信夫、ニューハードの宮間利之等
のビックバンドのリーダーをはじめ、テナーサックスの尾田悟、トランペットの松本文男、
サックスの宮澤昭がいる。
62.jpg 
このグループ(アズマニアン)にはジョージ川口、松本文雄(ミュージックメーカーズのリーダー)
南里文雄等も参加している。

当時の日本のレコード会社はジャズやポピュラーの輸入盤の発売をGHQより規制され、
進駐軍のラジオからのジャズ、ポピュラー・ソングやダンス・ミュージックは
聴くことは出来ても、闇取引以外に外国のレコードの入手は困難で、進駐軍の
キャンプや許可された劇場以外の場所での外国ポップスを演奏したり、唄う事は
禁じられていたのである。

そのようなことで、もっぱら進駐軍の基地の中のクラブでジャズは演奏され、
東京、新宿、立川、横浜等、キャンプ地の駅周辺には米軍キャンプの仕事を求めて
ジャズメンが集合する。
進駐軍3
その中には、ジョージ川口(ドラムス)、世良譲(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)
鈴木章治(クラリネット)笈田敏夫、ペギー葉山、ナンシー梅木、江利ちえみ、雪村いずみ、
伊東ゆかり、フランク永井等、皆駐留軍のキャンプ廻りから育ってゆく。

この時期、米国ではビーバップ全盛の時代だが戦争で鎖国をしていた日本には
新しいジャズの息吹は入ってきていない。

こうして戦後のジャズ・シーンの幕が開いてゆく。








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『レイモンド・スコットのElectronium』シンセサイザー続続編。
- 2019/03/06(Wed) -
このところはまっているレイモンド・スコット『Electronium』
の音音源をアップします。

音源は1959年。MOOGなんかが全然無い時代、こんな音楽を
作る奇才がいた。それがレイモンド・スコット。
今の時代のシンセサイザーと比べるものでは無いが、
アルゴリズムを使い、シーケンサーで自動録音している。
何ともユニークだ。

その前は何をやっていたかというと、スティーブ・ライヒもびっくりの
ミニマルミュージックをやっている。
どこからこういう発想が出てくるか気になる。





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『レイモンド・スコットのElectronium』シンセサイザー続編。
- 2019/03/06(Wed) -
このシンセサイザー右、中央、左に無数のスイッチがある。
ボタン、ケーブル症候群の私としては無性に触ってみたい。
右パネルにTAPEとあるのはアルゴリズムを記録するものか?
electronium03.jpg
中央パネルは全くわからない。
electronium05.jpg
左パネルにテープレコーダが付いている。
このパネルの一番下にキーボードが格納されている。
electronium06.jpg
カウンターメモリとリバーブの文字も。裏はIC回路の山だ。
electronium13.jpg
思っていたより基盤で整理されていない。

そもそもレイモンド・スコットは1908年生まれのピアニスト、作曲家、工学エンジニア。
作品も残っているが、不思議な曲ばかり。
早く生まれすぎた天才と言える。
だが、やりたいことの気持ちはすごくわかる。
rsclavibox.jpg 





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『レイモンド・スコットのElectronium』シンセサイザー
- 2019/03/04(Mon) -
世の中にまだ見たことのないシンセがまだあった。
YMO第4のメンバー松武秀樹さんが紹介していた『Electronium(エレクトロニュウム)』
electronium01.jpg
これ何かなと調べてみると、アルゴリズムの塊のようなシンセらしい。
使い方は勿論わかりません。それも結構大きい。
electronium17.jpg
スコット氏はこれを11年100万ドル(一億一千万円)かけて製作したらしい。
世の中に隠れた楽器と名人がまだまだいる。
electronium10.jpg







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5.和製ジャズ温故知新2019/音楽の鎖国
- 2019/03/01(Fri) -
日本では音楽の鎖国という時期がある。

1940年~1945年(終戦)までである。
正確には、1942年から1945年まで。
この時期、政府情報局を通じ、以下のような文が発せられる。
「大東亜戦争(太平洋戦争のこと)もいよいよ第二年を迎え、今や国を挙げてその総力を
米英撃滅の一点に集中し、是が非でもこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の年となりました。
大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでなく、文化、思想その他の前面に至るものであって
、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思いますと、文化の主要な一部門である
音楽部門での米英色を断固として一掃する必要のあることは申すまでもありません」

簡単に言うと、戦争も終盤にかかり戦局が悪いので総力戦のため、文化、特に音楽の
規制をする、というもの。
さらに、
「演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコード一覧表を作って、全国の関係者に
配布し、米英音楽を国内から一掃し、国民の士気の昂揚と、健全娯楽の発展を促進する
ことになりました」


特に敵国の米英音楽を規制するというものである。
クラシック音楽はドイツ、イタリアも同盟国なので除外されたらしい。
さらにこのパネルが何ともすごい。
パネル 
そして、
「米英系音楽としてわが国に輸入され、また最も多く一般になじまれたものは、なんと
言ってもいわゆるジャズ音楽と民謡調の歌曲とであります。
しかし米国系音楽の代表とみられるジャズや、これに類する軽音楽の大部分は、卑俗低調で
、退廃的、煽情的、喧騒的なものであって、文化的にも少しの価値もないものでありますから、
この機会にこれを一掃することは極めて適切であり、また絶対に必要なことであります」

米英音楽、特にジャズ音楽は価値のないものなので、特に規制をするというもの。

規制のリストが以下である。
「ダイナ」「私の青空」「アラビヤの唄」に代表されるジャズ音楽、「ロンドン・デリー」
「麦畑」「ヤンキー・ドゥードル」「アニー・ローリー」「アメリカン・パトロール」
「懐かしのケンタッキー」「オールド・ブラック・ジョー」「スワニー河」
「ラプソディ・イン・ブルー」「峠の我が家」「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」
「月光価千金」「セントルイス・ブルース」「南京豆売り」「アロハ・オエ」その他・・・。

何ともジャズは例に及ばず、ラテン音楽、ハワイアンまで入っている。
この規制は終戦まで続くが、その後反動のように熱狂的なジャズ音楽のブームがやってくる。

なんでもありの現代からは想像できない世界の事であるが、
約80年前の日本の事である。





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